「趣味は何ですか」と聞かれて毎回戸惑ってしまう。
「読書です」というと「偉いね」とか、「真面目だね」といった返答が帰ってくる。別に偉くなるために本を読んでいるわけではないし、真面目に本を読んでいるかというと違和感がある。ただ楽しいから読んでいるだけだ。
私から見ると「ボルダリングが趣味だ」という人のほうが健康的ですごいと感じてしまう。
また読書はやっぱり暗い印象だ。そもそも一人でしかできない。趣味を聞いておいて返答に困ってしまう気持ちはわかる。「どんな本読むの?」と聞かれても「色々です」と返答するしかない。
外山滋比古さんの「乱読のセレンディピティ」という本を読んですこしすっきりしたところがある。
この本の中で、著者は「読書」は特別なことではなく、情報を得て、自分の頭で思考し、人に伝達するプロセスの一つに過ぎないと主張している。
戦前、戦後の紙が貴重なものだった環境から「本を読む」ということが必要以上に尊ばれてきたという。趣味が読書というと「偉いね」と言われることにそのことが現れているのだと思う。
誰よりもたくさん本を読んできたであろう著者が、「読書」について、誰よりも客観的に特別なことではなく、盲目的に賞賛されるべきでないと語っているのがおもしろい。
また、同じ本を繰り返し読むことや遅読、速読など、世間で「読書はこうあるべき」と言われていることについて、そのメリットデメリットをあげながら、どちらかが絶対的に正しい方法ではないことを示している。
そして著者は「乱読」を推奨している。乱読とは、特定のジャンルを決めず、手当たり次第読むことだ。そして、乱読をしていく中で、思いがけない発見「セレンディピティ」が起きる。
ふと、探していたことが書いてあったり、別々の事柄が一つのつながりを持ったりする。わたしもそう多くはないが、そのような経験をしたことがある。小説の中で書かれていた知識が専門書の中に載っていたり、何気なく手に取った本の著者が私の尊敬する著者の恩師だったり。
読書で特定の知識を深めていくこともおもしろいが、そういった驚きのある知識の化学変化を体験することはまた別のおもしろさがある。
読書には本を手に取った主目的から逸れた「脇道」に読書の真のおもしろさがあるのかもしれない。