死ぬほど読書

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深い人生を生きたい。でも、そもそも深い人生とはどんなものかわからないし、日々何をして生きていればそうなるのかさっぱりわからない。

何か人と違う、自分にしかできないこと。そんなもの恐らくほとんどない。今の職場から自分がいなくなったら、他の誰かが同じことをするだけだ。

 

私は子供の頃から自分に自信がない。自分の欠点ばかりが目について、その欠点を何とか克服したいと本を読んでいる。

もちろん本を読む理由はそれだけではない。単純に面白そうだと思ったものも読むし、仕事上関心のある分野の本も読む。小説や、エッセイ、自己啓発本などジャンルに限らず読んでいる。

しかし、今がものすごく幸せで、何も不満がない状態であったら、娯楽として読む程度で、あまり熱心に本を読む必要はないかもしれない。何か問題があったり、なんとなく満たされないものがあったりするから、本を読んでいるのではないだろうか。

おそらくたくさん本を読む人はみんな少なからずそういった自分や、自分が置かれている環境に不満、不安といった感情を持っているのではないかと思う。

本を読むことでそれぞれ何かしらの答えを探している。

しかし、本を読んで何かを求めていること自体が本当に意味があるのかと考えてしまうことがある。

 

そんな今の生活を認められたいという気持ちで、丹羽宇一郎さんの「死ぬほど読書」を手に取った。

私自身、本を読むのが遅く、まだ読書歴も浅い。それでも最近は週2冊程度読んでる。また、更新回数はそう多くなくともこうして本に関するブログを書いているから、読書は自分のアイデンティティの一つである。

 

この本の著者の丹羽宇一郎さんは自分とは比べものにならないほどの読書家であろう。この本の中には私なら絶対に手に取らないような難しそうな題名の本が無数に登場する。著者の膨大な知識量を感じる。

この本では、本を読む上でどんなことをしているかどういうことを大切にしているかといったことに焦点が置かれている。その中で、以下のような内容のことが述べられていた。

「読書は無償のものである。」この本を読めば何かを得られるという気持ちで読むことはあまり望ましくない。何かを求めて本を読むのではなく、好きなものを心の赴くままに読むことが大切である。

確かにそうかもしれない。ネットで検索すれば大体の情報は無料で知れてしまう現代において、お金を払って情報を得る読書に対して何かを求めすぎていたように思う。

 

読書に対して気負うことなく、ただ関心のある本を読めばいい。好きなもの、関心のあるものはその時々によって変化する。それは現在の自分に必要なものそのものだ。

今の自分には必要なもの、無意識に欲しているものを本から得ることが読書において最も大切なことだ。

 

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